もうひとつの「食」の軌跡ーそして消費材が生まれたー
2009年 06月 25日
『山形庄内地方編』生活クラブ連合会 編集(株)ゆうエージェンシー
6月27日、28日は、遊佐研修ツアー(米学習)プログラムに参加する予定です。
その事前学習ということなのでしょう。
この本が送られてきました。
まず、生活クラブと「庄内」の提携の始まりの出会いから、紹介されていました。
減反政策で、政府は農家からコメをつくる権利を奪おうとしていた。
田んぼを潰したくないという思いで庄内から、国井清一さんは高橋与一さんを誘って、東京の消費者に直接農家の現状を訴えようと、ササニシキ2トン、カモフラージュのために上に大根2トンを積んで上京した。
すぐ売れるだろうと思っていたが、買ってくれる人は少ない。
困りはて庄内出身の元衆議院議員阿部昭吾さんに連絡したところ、生活クラブの初代理事長岩根邦雄さんを紹介してくれた。これが、1970年のことでした。
3日かけて売れなかったコメと大根が1時間ほどで売り切れた。
二人は生活クラブの組織力に度肝を抜かれたそうです。
2階に上がって歩くと建物が揺れるようなプレハブの事務所兼配送センターです。
「あの建物でコメの支払い能力があるのか」
といわれ、農協理事たちに反対され、コメの提携は白紙になり
結局、のしもちからのスタートとなるわけです。
カビの大量発生など多くの困難を乗り越えて、現在のように遊佐で収穫されたコメ18万俵うち、11万俵が生活クラブの組合員が年間登録米を基本に利用するようになったのでした。
読み進めていくと、記録的な冷夏で、政府がタイなどから260万トンの緊急輸入を決定した93年のことが書いてありました。
私は、その年でも、生活クラブのおかげで、輸入米を口にしなくてすみました。
そうできたのは、遊佐の農家の方たちの思いと努力のおかげだということを知ることが出来ました。
当時遊佐町農協の組合長だった
三村昭治さんは、次のように語っていました。
「とにかく生活クラブを優先し、前年実績に匹敵するコメを送り続けたい」
「(庄内の経済連や山形市の食料事務所で)本当にしぼられましたよ。でもね。生活クラブの組合員に無事にコメを届けることの満足感のほうが大きかった」
読んでいて胸が熱くなりました。
いくらでも高い価格で横流しも出来ただろうに・・・
毎日食べているごはんが愛おしくなってきました。
今度は、無添加ウインナーの話です。
現在の(株)平田牧場と(株)平田工房との1972年の出会いです。
現在(株)平田牧場会長の新田嘉一さんは「無添加ウィンナーをつくってもらえないか」という地元の鶴岡生協の申し入れに答えて、契約料の「月間10トン」の製造体制を整え生産します。
ところが、いざ売り出してみると、
東北6県全部あわせても「月間2万トン程度」
困り果てて、遊佐からコメを持っていく生活クラブに行きます。
当時冷蔵品を扱う設備が一切なく、階段を登れば揺れるプレハブの生活クラブです。
岩根理事長は、当時を思い起こして語ります。
「・・・・・何らかの形で対応したかった。契約数量を守らず、なおかつ返品までして、全てを生産者の責任にするような生協の態度に強い疑問を感じていましたからね。あの当時、太陽食品は3400万円もの負債を抱え、倒産寸前まで追い込まれていた。そこまで生産者を追い込んだ彼らの商習慣を絶対に許してはいけないと思ったわけです。」
1回だけの実験取り組みをして、生活クラブからの注文数量は「5トン」。
これが新田さんを驚かせた。
「東北6県の生協が束になっても月間2トンに届かない。・・・度肝を抜かれたのも無理はないでしょう。・・・」
生活クラブの消費材は、生産者との信頼関係と数々の失敗をへて、成長していきました。
一つひとつの消費材が、このようにして生まれていく。
その消費材を利用できる生活クラブの組合員であることに、言い知れぬ満足感を持ちました。
生活クラブの「生産者とともに歩く」姿勢が、先の三村さんの言葉になるのだろうと思いました。
グルメの間で評判の平田牧場の豚肉を、どこよりも鮮度のいい状態で、適正価格で購入できるのは、こうした長年の信頼関係の賜物であるのを、再確認できました。
食の「軌跡」を「奇跡」と書きたくなりました。