解釈改憲について考える
2009年 06月 20日
講師は、渡辺礼一さんです。
渡辺先生は、自由の森学園の社会科の先生でした。
要点をおさえたわかりやすい話で、私は、礼一先生のファンです。
最初に「マルセ太郎名言抄」
*「独立国であれば侵略から守るために戦力を使うのが当然だ。で、あんた平和憲法といってるけど外国から攻められたらどうするんだ」という問がある。
前々から思っているんですが、これに対してぼくはあえて言いたい。「よく言うよ、この前科者」と。そもそもそういうことをいう資格がないんですよ。まだちゃんと刑に服してないじゃないの。そうでしょう?(略)第一、本当に侵略に怯えているのは日本人じゃない。アジアの人たちだよ。憲法では戦力を持たないといいながら、世界第二位の軍事費に裏打ちされた軍事力を持っている。
*(前略)もう一つ強くいいたいのは、愛国心は悪いものだということです。ぼくはあえて憲法集会なんかでいってるんです。「日本が愛国心の名のもとにいいことをしたという事実があれば教えてくれ」って。悪いことばかりやってきた。(略)愛国心は悪いものなんです。愛国心が歴史的にいい方向に作用したのは、侵略された側においてなんですね。
*(前略)日本人は死ぬまで思考しない民族になってしまう。悪い言葉でいえば、えささえ十分与えられればどんどんなびいていく。近く選挙があるけど、新聞見ればわかるんじゃないですか。「景気はどうするんだ」と、それしかない。景気さえよくなりゃあいい。人権とか憲法とか、そんなのどうでもいい。憲法なんてのは、暇なやつが春になるとやるんだよ。季節なんだよ。・・・・・・・・・・と、そこまできてしまっている。
礼一さんは、憲法のことを考えると、武田鉄也の『思えば遠くへ来たもんだ』という歌を思い浮かべるそうです。
もし浦島太郎が、憲法制定のときに龍宮城へ行って、現代に帰ってきたら、その変わりようにびっくりするだろう。自衛隊はある、海外にまで派兵している、いったいどうなっているんだろうか?憲法9条はなくなったのだろうかと思うことだろうといっていました。
九条の会の呼びかけ人の1人、加藤周一の『なしくずし』と『言い換え』は権力の手法であるという言葉から、1946年から国の言っていることややっていることがどのように変わっていったかを、説明してくれました。
1946年 憲法制定時は、「自衛を含めいっさいの戦争・軍備を放棄」
1950年 警察予備隊創設
1952年 保安隊発足
1954年 自衛隊発足
1980年 「海上派兵とは、・・・・・・自衛のための必要最小限を超えるものであって、憲法上許されないとと考えている」
1981年 「・・・・・・集団自衛権を行使する事は、憲法9条が許容する自衛権の範囲をこえるものであって、許されないと考えている。」
それが、10年後
1991年 湾岸戦争終結後のペルシャ湾へ掃海艇の派遣
1992年 カンボジアへ陸上自衛隊派遣(PKO法)
1994年 ルワンダ派遣(PKO法)[陸・空自衛隊]
1995年 ゴラン高原派遣(PKO法)[陸自]→現在
1997年 新ガイドライン制定
1999年 周辺事態法
2001年 テロ対策特措法
海上自衛隊護衛艦、補給艦インド洋派遣→現在
2002年 東チモール陸自派遣
イージス艦インド洋派遣
2003年 イラク復興支援特措法
2004年 陸自サマワ派遣 航空自衛隊イラク派遣
国民保護法等有事7法
2006年 自衛隊法改正で海外活動を「付随的任務」から「本来任務」へ
2008年 新テロ対策特措法
2009年 海上自衛隊護衛艦ソマリア沖派遣
P3C2機 ジプチに派遣
今回の「海賊行為の処罰及び海賊行為への対処に関する法律」は、派兵恒常法の第一歩で、世界のどこの海にも派兵ができることを可能にするとのことです。
その第1条(目的)に
資源の大部分を輸入に依存・・・・・・航路の安全の確保は極めて重要であること、・・・・
というように、「○○はわが国の生命線」だという論法は、戦前の出兵にはよく使われた論法だそうです。
ちょっとずつ、ちょっとずつ変えていって60年。
「自衛を含めいっさいの戦争・軍備を放棄」から、派兵恒常法の第一歩まで変わっていったことになります。
いったい誰の意思がそうさせたのでしょうか?
日本が軍隊を持って、海外に派兵する事もできるようにしたいという強い意思を持った人がいるから、このように変わってきてしまったのだと思うのです。
それは誰なのでしょう。